2021年〈令和3年〉11月28日、テレビドラマ「鬼平犯科帳」で長谷川平蔵役を務めた二代目中村吉右衛門さんが亡くなられた。
自分の頭の中では、長谷川平蔵=二代目中村吉右衛門だったので、非常に残念である。
「鬼平犯科帳」は、池波正太郎原作の小説を元に、1989年から2001年まで放送された時代劇であり、フィクションだらけの日本の時代劇の中で、実際に江戸時代を過ごした実在の人物 長谷川平蔵を題材にした、比較的史実に近いドラマと専門家からも評価が高いと聞いたことがある。
では、主人公である実在の長谷川平蔵とはどんな人物だったのだろうか?
長谷川平蔵こと、長谷川 宣以(のぶため)は、
1745年(延享2年)平蔵誕生
同じく火付盗賊改方頭であった父・長谷川宣雄の嫡男として誕生。
若い時は幼名の銕三郎(てつさぶろう)から「本所の銕(てつ)」などと呼ばれて恐れられたとのことだ。きっと暴れん坊だったのだろう。
ちなみに本所とは、現在の東京都墨田区南部地域の総称で、明暦の大火(1657)以後武家町人の宅地として開け、東両国は盛り場となったエリアのことである。
1768年(明和5年)12月 長谷川家の家督相続人に
平蔵23歳の時に、江戸幕府10代将軍・徳川家治に御目見し、長谷川家の家督相続人となった。
その後、旗本の大橋与惣兵衛親英の娘と結婚
1771年(明和8年)嫡男誕生
平蔵26歳の時に、2人の間に嫡男である宣義を授かる。
1772年(明和9年)2月 明和の大火
平蔵27歳の時に、江戸三大大火の一つ「明和の大火」が起きる
江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数え、死者は1万4700人、行方不明者は4000人を超えた大火であったが、当時、火付盗賊改であった父・長谷川宣雄は、火付けの犯人であった武州熊谷無宿の真秀という坊主を捕らえ、市中引き回しの上、火刑に処した。
1772年(安永元年)10月 京都へ
父・長谷川宣雄は、「明和の大火」の功績が評価され、京都西町奉行に転任。長谷川平蔵も妻子と共に京都に赴いた。
1773年(安永2年)6月 父・死去
父・長谷川宣雄が京都で死去
1773年(安永2年)9月 江戸に戻る
平蔵は江戸に戻り、長谷川家の家督を継ぎ、小普請組支配長田備中守の配下となった。
この頃、平蔵は、父・長谷川宣雄が貯めた金を使い、当時流行りの粋な服装をし、遊廓へ通いつめ、「大通(だいつう)」として知られていた。
1774年 西の丸御書院番士 就任
平蔵29歳の時、江戸城西の丸御書院番士(世継ぎの身辺警護をする役目)に任ぜられる
1775年 西の丸進物番士 就任
西の丸進物番士として、田沼意次へ届けられた大名・旗本からの贈答品を管理する、いわゆる賄賂管理の係に
1784年(天明4年)西の丸御書院番御徒頭 就任
平蔵39歳の時、西の丸御書院番御徒頭として足高600石の加増を受ける
平蔵が担った御書院番士や御進物番士などは、堂々と押し出しの良い人間(人目に映るその人の姿や態度、風采がいい)でなければ勤まらない役職で、よほど格好良かったのだろう
1786年(天明6年)御先手組弓頭 就任
平蔵41歳の時、番方最高位である御先手組弓頭に任ぜられる
1787年(天明7年)9月 火付盗賊改役 就任
平蔵42歳の時、火付盗賊改役に任ぜられる
いよいよ鬼平犯科帳の始まりである。
火付盗賊改役は、江戸時代の重罪、火付け(放火)、盗賊(押し込み強盗団)、賭博を取り締まった役職で、それら凶悪犯を取り締まる警察組織である。
決まり文句の「御用改めである」は、
警察による「家宅捜査だ!」が妥当な現代語訳だろう。
1789年(寛政元年)4月 神稲小僧捕縛
関八州(江戸時代の関東八か国の総称。武蔵、相模、上野、下野、上総、下総、安房、常陸)を荒らしまわっていた大盗、真刀徳次郎一味(別名:神稲小僧)を一網打尽にし、武州大宮宿で手下と共に獄門にかけた。
この大活躍が長谷川平蔵の勇名を天下に響き渡らせる。
1790年(寛政2年)石川島・人足寄場建設
長谷川平蔵は、寛政の改革で、犯罪者を更生させる施設「石川島・人足寄場」を建設。
隅田川河口の中州、石川島と佃島の間の1万6千坪あまりの土地に、犯罪を起こすおそれのある無宿者の収容所を作ったことなどで功績を挙げた。
無宿人や刑期を終えた浮浪人などに大工、建具、塗物などの技術を修得させ、更生を図る施設で当時は画期的な取り組みだった。
しかしこの時、老中首座・松平定信に予算の増額を訴え出たが受け入れられず、やむなく幕府からの預り金を銭相場に投じて資金を得た。
この手法はかつて賄賂係として仕えた田沼意次的な手法であり、田沼意次を毛嫌いしていた松平定信からは好まれなかった。
また同僚の旗本たちも、不満を訴えていたという記録も残っているとのことだ。
出る杭はいつの時代も妬まれるものである。
1791年(寛政3年)5月 葵小僧捕縛
江戸市中で、徳川家の家紋である葵の御紋をつけた提灯を掲げて商家に押込強盗を行い、押込先の婦女を必ず強姦するという、凶悪な手口をもって江戸中を荒らしまわった凶悪盗賊団の首領・葵小僧(別名:大松五郎)を捕縛、斬首した。
この捕り物では、婦女暴行の被害者に対する配慮から、捕縛後わずか10日という異例の速さで処刑したとのことだ。
長谷川平蔵は、非常に有能だが、幕閣(特に松平定信)や事あるごとに平蔵を誹謗中傷していた同じ火附盗賊改役の同僚からの嫉妬が障害になって、活躍の割に、望みの町奉行にもなれず、出世には恵まれなかった。同僚たちに愚痴をこぼしていたとのことだ。
しかしドラマにも取り上げられたように、人情味溢れる仕事振りに、
庶民からは「本所の平蔵さま」「今大岡」と呼ばれ、非常に人気があったとのことだ。
寛政7年(1795年)火付盗賊改役退任
8年間勤め上げた火付盗賊改役の御役御免を申し出て、認められた3ヵ月後に死去した。
死の直前、11代将軍・家斉から労いの言葉と、「瓊玉膏」を下賜される。
この「瓊玉膏」は、今も滋養強壮の薬として発売されているから驚きだ。
漢方製剤 として現在も販売されている| 開豊 瓊玉膏 |へのリンク
1160年、中国が「宋」の時代に誕生したといわれる漢方薬で、時の皇帝の子孫が脈々と栄えることを願って、「皇帝とその子孫の不老長寿を願う至宝の薬」として愛用されていたと言われている。
かの西太后の「美」と「健康」を支えた漢方処方で、平均寿命が45歳前後だった当時の中国で、74歳まで生きた」と言われている。
その際、単に長生きしたというだけではなく、髪も終生黒々として、肌も美しかったとのことだ。
最後に、東京都新宿区須賀町の戒行寺には、長谷川平蔵の供養碑がある。
興味のある方は行ってみてはいかがだろうか。
長谷川平蔵、二代目中村吉右衛門、皆の記憶に残るお二人の活躍を忘れません。
安らかにお眠りください。
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